ぶどう園通り商店会を訪ねて〜阪田ストアー編〜 2019.6.17
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国道6号線(水戸街道)の牛久市役所入口から、
408号線の中柏田にぶつかる迄の1本の通りを
“ぶどう園通り”と呼びます。
この通りには日本初のワイン醸造場として
1903年に神谷伝兵衛が創業した
「牛久シャトー」があり、
そこから”ぶどう園通り”と名付けられています。
通りにはぶどう園通り商店会が存在し、
今は、先代から家業を継いだ2代目・3代目が
この商店会の主役。
そこで、家業を継いだ人々にお話を伺う事でこそ
見えてくる牛久があるのではないかと思い、
実現したのが今回の取材。
ご登場いただくのは、ぶどう園通り商店会の
八百屋といえばココ、「阪田ストアー」。
お母様の美代子さんと、家業を継ぎぶどう園通り
商店会の会長でもある、伊藤壮司さんにお話を伺ってみた。


牛久新聞
壮司さんで何代目になられるんですか?
壮司さん
おじいちゃんが始めて、父がいて、私です。
正式にはまだ事業継承はしていないのですが、
一応、3代目ですね。

牛久新聞
ご兄弟は??
壮司さん
兄がいて、姉がいて、私です。
牛久新聞
美代子さんは牛久のご出身ですか?
美代子さん
そうです。元々牛久ですよ。

牛久新聞
ご主人も牛久のご出身で??
美代子さん
いや、藤代ですね。
牛久新聞
そーなんですね。
壮司さん
母は、女3人兄弟の一番上なんですよ。
美代子さん
主人は、男兄弟3人の次男坊なんです。
牛久新聞
おっと、3兄弟繋がり^^
「阪田ストアー」は、創業何年ですか?
美代子さん
私の父がはじめて、66年ですかね。
昭和28年だから。
牛久新聞
創業当時からこの場所ですかね?
美代子さん
八百屋はそうですね。
父の生まれは上町の方で、
鋳物工場をやっていたんですねよ、戦後に。
派手にやったけど何も残らなかったみたい…。
パーっとやって、パーっと無くなったって(笑)
壮司さん
その時は儲かったのかな?
美代子さん
儲かったみたいよ〜。
でも、需要が無くなっちゃったみたい。。。
それで、食べ物商売の方がいいって事で
場所を求めてココに来たみたいです。
壮司さん
じいちゃんは戦争に行ったので。
でも、戦地じゃなかったから大丈夫だった
みたいですね。ばあちゃんは、東京生まれです。
美代子さん
向島ですね。
戦争体験しているので、
隅田川に死体が浮いているのを
随分見たって言ってましたよ。
その話はよく聞きましたね、母から。
東京から、よくこっち(牛久)に移り住んだなぁと思いますよ。
牛久新聞
何にもないですよ、きっとこの辺り?
美代子さん
ほとんど山だったみたいですね。
道路も舗装なんてされていなかったみたいで。
この先(店の前)を右に曲がるのも怖かったみたい。
山で暗くて。
牛久新聞
美代子さんが物心ついた時には、もう牛久シャトーはありましたよね?
美代子さん
ありましたね。葡萄畑もありましたね。
神谷の方に、神谷伝兵衛のお墓があって。
そう、アスレチックもあって。
壮司さん・牛久新聞
あった〜!!!
壮司さん
火事になったような記憶が…。
牛久新聞
えっ!?
丸太の橋から落っこちた記憶ありますよ(笑)
八百屋を始められた頃、他にお店は??
美代子さん
ほぼ無かったですよね。
駅前の岡部商店ぐらいですかね、あったのは。
東口は後から出来たので…。
最初は西口しかなかったのよ。
西口に岡部商店、その後、東口にウチですね。
壮司さん
サンキューストアは、もっと後?
美代子さん
うん、後だと思うよ。
壮司さん
そうゆう環境だったので、物を仕入れて置けば
どんどん売れたみたいですよ。
牛久新聞
魚用の冷蔵庫がありますが、あれは?


壮司さん
じいちゃんが魚をやっていたんですよ。
じいちゃんは、なんでもやるんですよ(笑)。
魚に関するキャリアなんて何にもないのに
はじめて。八百屋の前は鋳物ですしね。
美代子さん
何にも知らないのに、見様見真似ではじめて。
すごいっしょ!
牛久新聞
すごいっす!!!
美代子さん
当時は、魚屋もないから売れていましたよ。
私もこっち(壮司さん)も調理師免許を取ったしね。
牛久新聞
壮司さんが手伝い始めた頃、魚は?
壮司さん
やってましたね。
その前なんかは、揚げ物もやっていましたよ。
揚げ物は自分がやり始めた頃は、もうやっていなかったですけど。
美代子さん
何でもやってたもんね。
灯油まで配達してましたよ。
需要があれば何でも!!
父の若い時は、築地までひとりで行ってましたよ。
牛久新聞
先代のおじいさまは?
美代子さん
8年程前に亡くなりました。

牛久新聞
じゃあ、壮司さんは一緒に働いていたんですね。
それは、おじいさま嬉しかったでしょうね!
美代子さん
最後まで、現役で店にいましたよ。
90歳近くまでね。
まちの人口増加と周辺環境の変化
牛久新聞
やはり、スーパーが出来てからですかね?
売り上げが変わってきたのは?
壮司さん
人口が増えると同時に、スーパーも乱立して。
それまでは、日用雑貨とか食料品を仕入れて売って
いたんですけど、競合他社が増えてから徐々に売り上げ
も減っていったので配送にシフトチャンジしていきました。
牛久新聞
配送はお父様の代から始められたんですか?
壮司さん
そーですね。
バブル崩壊前ぐらいまでがピークで、
それ以降徐々に売り上げも落ちていったので、
配送を増やしていった感じですよね。
牛久新聞
なるほど。今は?
壮司さん
今は、配送メインですね。
美代子さん
あと、近所の方とかにはその日に必要な品を
電話で注文受けて届けています。

牛久新聞
今、「阪田ストアー」を支えている配達業務は、
どのような所へ行くのですか?
美代子さん
給食、結婚式場、レストラン、ゴルフ場とか。
牛久新聞
地域は?
壮司さん
基本は牛久ですね。遠い所だと龍ヶ崎まで行くんですけどね、ゴルフ場とかは。
美代子さん
2軒で入っている所は、ウチと交代交代だったりするので。


3代目として
牛久新聞
先程のお話だと、壮司さんにお兄さんがいらっしゃいますよね?
壮司さんが家業を継ぐと決意されたのは何故ですかね?
壮司さん
やっぱり、性格とかあると思うんですよ。
小っちゃい時から、何となく自分が”継ぐ”のかなぁ
と思っていたんですよね。
牛久新聞
ぶっちゃけ、継ぎたくね〜な〜みたいな気持ちは?
それとも、俺がやってやんぞ的な??
壮司さん
ん〜〜〜。。。
特にやりたい事とかも無かったんですよ…。
美代子さん
私だってそーよ〜(^^)。
やれ、自動車学校行け、簿記学校行けだの。
ココを必然的にやるような羽目で。
牛久新聞
やるような羽目って(笑)。
息子さんに継いで貰いたいといった思いは
ありました?
美代子さん
息子に??
あ〜、うん。やっぱり手伝ってくれていたから、
高校に行っている頃には。
壮司さん
高校卒業後は浦安まで夜間の大学に通って
いたので、昼間は八百屋を手伝ってましたね。
牛久新聞
Wow!!
できた息子さん!!!
壮司さん
いやいや、やりたい事があれば
専門学校行ったりしたと思うんですけど、
コレというのが無かったので。。。
美代子さん
私も同じ^^
牛久新聞
似てますね、お二人。
美代子さん
あはははははははぁ〜。
長男が”後継”という思いはあったんですよ。
でも、本人にはそういう気持ちが無くて。。。
本当にやりたい事や好きな事を聞いてやれず、
こちらの思いを勝手に押し付けてしまった時期もあって、、、。
それは、本当に悪かったなぁ…と。
牛久新聞
小学校の時によくある「将来の夢」ってあるじゃないですか?
壮司さんは、家業の八百屋を継ぐとか書いていたんですか??
壮司さん
いやいや、八百屋じゃなかったですよ…。
野球が好きで、ずっとやっていたので
プロになりたいと思っていました。
でも、どんどん自分より上手い子を見るわけじゃないですか。
無理だなプロは、、、って気付かされて。
だから、八百屋になりたいって気持ちはなかったですよ(^_^)

休日には、息子さんも所属する「牛久リトル」のコーチを務める壮司さん。
6月に行われた東日本選手権連盟大会を制し、なんと全国大会出場決定!!
野球への思いは、プロ野球選手を夢みた頃と何も変わらず持ち続けている。
牛久新聞
どんな時期に決心したんですかね?自分が”継ぐ”と??
壮司さん
やりたい事もないし、家は商売やっているし、仕事はあったので。
手伝ってもいたし…ほんと、そういう流れですよ。
牛久新聞
壮司さんのお子さんは?
壮司さん
3人います。リトルリーグやっているのが長男で、
6年生。下が4年生と5歳の女の子です。
牛久新聞
おっと、ここでも3兄弟縛りが(^_^)
お父様・美代子さん・壮司さん・壮司Jr、みんな3兄弟(笑)。
ちなみに、現在の「阪田ストアー」スターティングメンバーの年齢は?
壮司さん
父が75歳、母が72歳、私が42歳です。
牛久新聞
壮司さんの苗字が”伊藤”ですよね?
美代子さん
伊藤家がひとりっ子なもんで、婿養子に出したんですよ。
ぶどう園通り商店会
牛久新聞
ところで、ぶどう園通り商店会ってどこからどこまでなんですかね?
壮司さん
それ、よく聞かれるんですよね〜。
牛久新聞
湘南の定義的な(笑)。
壮司さん
これは多分なんですけど…。
踏切からふれあい通りにぶつかる栄町5丁目までですかね。


美代子さん
昔は結構お店もあったんですよ^^
牛久新聞
ぶどう園通り商店会に、2代目・3代目は壮司さん以外にいらっしゃいます?
壮司さん
いますね。牛乳屋もそうだし、靴屋もいるし。
牛久新聞
周りに同じような家業を継ぐ立場の人が多いと、
これからの事を話たりしますか?
壮司さん
やっぱり話しますね。
集まりも頻繁にありますよ。
これからやって行くにあたって色々考えていかないといけないので。
厳しい状況ですから。。。
美代子さん
みんな頑張っていますよ!
そう言う美代子さんも、とにかく明るく元気でパワフル!
先日もちょっとした交通事故にあったそうで、その時の事を
「腰に車がぶつかってね〜。でも、生きてたから仕事できるね。」
なんて笑顔で。


そして、取材を終えるとすぐにご近所さんへ注文確認の電話をする美代子さん。
その姿を見て壮司さんは、
「母を尊敬するんです。本当に凄いと思います。」
と何度も何度も…。
この言葉の裏には、お二人にしかわかり合えない思いがあると強く感じた。
昨年10月に飛び込んで来た電撃ニュース


牛久のランドマーク「牛久シャトー」の飲食・物販事業が2018年12月28日をもって撤退するというニュースが突然飛び込んできた。
このニュースにより、「牛久シャトー」が閉園したと思われている方もいるようですが、あくまで”飲食と物販事業”の撤退で施設内の見学はまだ可能です。
しかしながら、飲食と物販事業撤退の影響は大きく、実際今の「牛久シャトー」は閉園と変わらない状態に陥っている。
牛久新聞
シャトーへの配達もあったのですか?
壮司さん
ありましたね。
長い付き合いで・・・。
美代子さん
花見の時期には忙しかったもの。
BBQの材料とかね。
牛久新聞
飲食と物販事業撤退の噂は、少し前からあったのですか?
壮司さん
いや、いきなりですね。
10月31日の公式プレスリリースが出る5日前ぐらいですよ聞いたのは。
美代子さん
シャトーで働いている人達も、寝耳に水だって言ってましたよ。
壮司さん
今後どうなるかもまだ決まっていなですね。
この間の“日本遺産”の2度目の申請も落ちちゃったし。。。

牛久新聞
4代目として、壮司さんの長男に継いで貰いたい
というお気持ちはありますか?
壮司さん
・・・。
いや、ないですね。
美代子さん
それはないよね。。
牛久新聞
(;゚Д゚)エエー
そうなると、「阪田ストアー」は壮司さんの代が
最後で幕を下ろす事になりそうだと…(TдT)
美代子さん
年金で何も出来ないよ〜。
介護保険も引かれて…。
何も残っていませんから(笑)
もういいと思っています。
ただ、先代がお墓を残してくれてので、それは本当に感謝しています。
牛久新聞
「阪田ストアー」が無くなる事について寂しさは?
美代子さん
それはないですよ。
時代の流れでね。
配達があるから今はまだやっていけるけど。
やっぱり需要が無くなってきているからね…。

マスコットキャラクターの前で撮影。「何となく僕に似てませんか?」と笑う壮司さん。ファインダーを覗くと3人がそっくり!!
自分の代で終わりだという言葉が頭の中に残り、
翌日もう一度ぶどう園通り商店会を歩いてみた。

昔は一面が葡萄畑だった牛久シャトー前は駐車場。
しかし、今でも駐車場の一角に小さな葡萄畑が残されている。

この日偶然にもその畑の手入れをする男女に
お会いする事ができた。
聞くと、お二人とも牛久シャトーの元社員。
今でも畑が枯れないように手入れをしているそうだ。
それは、いつどのような形で牛久シャトーが
再開してもいいようにという思いから。


一面の葡萄畑から、小さくなったこの畑を見ると
今の牛久の街と重なるところがある。
しかし、これから大きく実をつけようと育つ
小さな葡萄畑は、ここから”もう一度何かはじまるかもしれない”
そんな前向きな気持ちと力も与えてくれる。

最後に沢山の思いを込めて、開け〜ゴマ!!
おっと、牛久シャトーは閉園してませんよ〜^^。
見学はまだまだ可能です。
是非、ぜひ皆さんぶどう園通りに遊びに来てねー。
阪田ストアー
茨城県牛久市中央3丁目33−10
029-872-0296
日曜休み
